歌う珈琲屋さん

クラシック歌曲・オーガニック珈琲

あなたにとっては

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教会のシスターハウスに電話がかかってきたのは

冬の真夜中でした。

「近所に二階の屋上から飛び降りようと

 している人がいるので、助けてほしい」

リーダーと共に急いで現場へ駆けつけると、若い女の人が屋上のベランダを超えようとしていました。

「待って! ねえ、ちょっと待ってください」

真下に立ったリーダーが

両手を広げて声をかけている間に、

私は物凄いスピードで屋上へと駆け上りました。

そして、低い鉄製の柵越しに思いっきり手を伸ばし、

庇の上に立つ彼女の腰をぐっと引き寄せました。

どこからそんな力が出てきたのかは知りませんが、

あっという間にのけぞって、

彼女を抱きかかえたまま後ろにドデン!と倒れました。

 

何とかシスターハウスに連れていき、

肩に毛布をかけ、温かい飲み物をすすめました。

はじめは敵意さえ見せた

ぶっきらぼうな態度を取っていた彼女でしたが、

温もりで心が緩んだのか、

やがて、ぽつぽつと語り出しました。

 

大学の教授とデキてしまったこと。

ピアノの個人レッスンと偽って、

毎週のように逢瀬を重ねていたこと。

その時、教授が持ってくる愛妻弁当を、

二人で笑いながら食べたこと。

 

「別に、悪いことしてるとは思ってないわ。

 だって、みんなやってるもの

彼女は顔を背けてうそぶきました。

 

でも、苦しいんでしょう?

 

今しがたの騒動を思い起こして、

彼女はうつむきました。

 

「誰かにばれたわけでもないし、

 先生に別れようって言われたわけでもない。

 ただ、奥さんの弁当が……

 こんな小さなことで悩んでる自分って

 バカみたいよね」

 

「ほかの人にとって小さなことに思えても、

 あなたにとっては大きなことなんでしょう?」

 

優しく語り掛けるリーダーに、

彼女は初めて顔を向けました。

 

大きな美しい瞳から、涙がとめどもなく溢れました。

友だちが何と言おうと、

周りのみんながどうしていようと関係ない。

平気なふりをしながら、その実、

自分がどれほど罪悪感に苛まれてきたか、

彼女はやっと気づくことができたのです。

 

彼女はその後シスターハウスの一員となり、

多くの人々をお世話するようになりました

 

⁂これは、私がまだ教会に属していた頃のお話です。

 その教会は今、ありません。