歌う珈琲屋さん

クラシック歌曲・オーガニック珈琲

みっともなくても

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釜ヶ崎で奉仕活動をしていらっしゃる

本田哲郎神父さんのお話です。

労働者の町で、いわゆる浮浪者と呼ばれ、

野宿を余儀なくされている人々のお世話を 

長年してきた方です。

 

ある日、行き倒れになっている老婆を見ました。

顔には見覚えがあります。

その人は、あちこちで拾ってきた物を

小さなリヤカーに積んでいたのですが、

そのリヤカーに片手を掛け、

口には食べかけのみかんを半分突っ込んだまま 

事切れていたのです。 

ぼろぼろの薄汚い服、煤けた頬、

これ以上みじめになりようがない最期でありながら、

老婆の顔は あっけらかんとしていました。

 

その姿を見た時、神父さんは

「これでもいいんだ」と思い、

気負いがス~っと抜けたそうです。

 

炊き出しの場面で、イエス・キリストは 

食べ物を与える側ではなく、

もらう側に並んでいる人の中にいる。 

貧しさを美化するのではなく、社会的弱者、

小さくされた人たちの 只中にいるからこそ解る

苦しみを何とかするために

仲間と共に立ち上がることが大事なのだと訴え、

原語から聖書本来の解釈を

新たにし直してらっしゃる方です。

 

「一番 怖いことって何だろう」

 

みじめな死に様を晒すこと――

究極的には それ ではないでしょうか。

 

みじめに死ぬ とは どういうことでしょうか。

 

先生、先生と慕われ、人格者と目されていた医者が、

入院先で看護師や付き添いの人に怒鳴り散らし、

最期は疎まれて逝った人がいます。

 

地位や名誉、財産を失うことも怖いでしょうが、

 「いい人」の仮面が剥がされるのではないかと、

ビクビクしていることもあるでしょう。

 

件の老婆には 

もはや何も失うものはありませんでした。

おそらく「なぜ生きるのか」も「死にたい」も無く、

今日何が食べられるか。 あ、みかんがあった。 

食べてるうちに逝っちゃった。

ってことなのかもしれません。

 

この絵を描いたとき、最初の言葉は

「みっともなくても生きろ!」でした。

それを見た息子が

「みっともなくても『生きる』がいいんじゃない?」

と言いました。

 

そうだなぁ。

人様にどうこう言うより、

自分はどうなのかってことなんだよね。

「ろ」の文字に くるんと〇を付けました。

 

 

 

⁂ 8日間にわたり生と死についてUPさせて頂きました。

  お付き合いくださった皆様、

  ありがとうございました。