歌う珈琲屋さん

クラシック歌曲・オーガニック珈琲

挨拶

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「うっせーな! いったい何時だと思ってんだよ!」

隣家の男が 向かい合う部屋の戸を開けて 

怒鳴ったのは、夜中の二時を回った頃でした。

 

娘が友人を引き連れて、

東京から帰ってきた時のことです。

若者らしく わいわいがやがやと 

おしゃべりしていました。

 

マナミさんは、二階で寝ていましたが、

その男の声は聞こえました。

親の出る幕でもなかろうと、

しばらく様子をうかがっていましたが、

静かになったので 

そのまま うとうと寝てしまいました。

 

翌朝聞くと、娘と友人一人が代表して 

きちんと 謝りに行ったとのこと。

「そんなに大騒ぎしていたわけでもないのに――

 しかも、あの人、自分のことは棚に上げて・・・」

 

いさぎよく詫びを入れた事をよしとしながらも、

娘の不満はよく分かりました。

 

その男は 三十前後といったところでしょうか。 

水商売をしている だいぶ年上の隣人と、

暮らし始めたようです。

体はでっぷりしていて、

その体重を びっこを曳きながら 

やっと支えているという感じでした。

 

その男と一緒に犬もどんどん増えて、

五、六匹が 家の中で常時吠えているような状態。 

朝早くから始まる テレビゲームの音も 

不愉快なものでした。

 

こっちだって、言いたいことは山ほどある。

でも、マナミさんは 

文句を言う気にはなりませんでした。

まだ あどけなさの残る その男の顔は、

見捨てられた子どものように 

どこか オドオドして見えたからです。

 

娘たちがいなくなって、

あの騒動も知らなかったかのように 

マナミさんは 男に声をかけました。

 

初めは、無視されたり、

グッと睨み付けるような感じがありました。

それでも、マナミさんは 何かと機会を見つけては、

男に声をかけ続けました。

 

ある日、小さな庭に芝をはっている男を見かけて、

「上手ですね~」と褒めると、

男は 気を良くして

「前に なんでも屋を やってたもんで・・・」

と答えました。

今だ! とばかりに マナミさんは 

また 話しかけました。

 

「芝刈りした後のやつ、こっちにくれる? 

 お友だちの うさぎを預かっているので、 

 餌にしたいの」

「ああ、いいっすよ。 どのくらい? 

 どっちに置きますか?」

 

言葉のやりとりが しばらく 続きました。

やっぱり、まんざら 悪い人でもなかったんだわ

――マナミさんはそう思いました。

 

その日を皮切りに、

早朝のテレビゲームの音が小さくなりました。

犬どもを怒鳴りつける声も、

少なくなっていきました。

 

ある日、マナミさんが玄関口を掃いていると、

「こんちは」。

小さいけれど 明るい声がしました。

自分んちのドアに 大きな体半分を入れながら 

恥ずかしそうに 男が立っていました。

 

「こんにちは! いい天気ね~」

初めて 向こうから かけられた挨拶に、

マナミさんの心は その日の青空のように

晴れ晴れとしました。

 

 

これは、コロナ以前のお話しです。