歌う珈琲屋さん

クラシック歌曲・オーガニック珈琲

弁当

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「ちょっと待ってください! ちょっと!」

母があたふたと 停車中のバスに向かって来た時、

マサヤはびっくりしました。 そして 

「ああ、運転手が気づかなければいいのに、

 早く発車してくれればいいのに」と願いました。

 

バスの中は、通学の高校生で一杯でした。

自分のクラスの子も、他のクラスの子も、

そして「あの人」もいます。

 

プシュ~ パタン!  

ドアが閉まったその時、やっと辿り着いた母が、

背後をバンバン叩いて、バスを停めてしまいました。

それだけでも じゅうぶん恥ずかしいのに、入り口で 

「マサヤ~、マサヤはいますか~」と、叫ぶのです。

 

知らんふりしていたい マサヤでしたが、

この事態を一刻も早く打破すべく前に出て行きました。

「マサヤ! あ~良かった、間にあって。 

 はい、弁当。 忘れちゃダメでしょ」

 

クスクス笑いが 聞こえたような気がしました。

火の出るような 真っ赤な顔で、

マサヤは母を睨み付けると、

弁当をひったくるようにしてバスの後ろへ戻りました。

 

それから何年もの月日が流れ、マサヤも親になり、

子育てしながら、母の事を思うようになっていました。

バス事件の後、マサヤは長い間、

母と口を利きませんでした。

みんなの前で恥をかかされた、

という感情しかなかったのです。

 

でも、大人になって思い出すのは、

走り出したバスの窓から チラッと見かけた、

母の後ろ姿でした。

 

悪い事でもしたかのように、肩を落として 

とぼとぼ坂道を下っていく姿。

あまり体の丈夫でない母にとって、

あの坂道を駆け上ってくるのは、

どんなに難儀なことだったでしょう。

 

「母ちゃん。 ごめんな。 弁当ありがとな」

言えなかった言葉を、マサヤはそっと言いました。

写真の中の母は、にっこり微笑んでいました。