歌う珈琲屋さん

クラシック歌曲・オーガニック珈琲

てのひら

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バスの乗客は私一人だった。

降りる場所が さだかではなかったので、

左側の一番前の席に座った。

すると、運転手が話しかけてきた。

 

「ほら、今の時間帯、お客さんいないでしょう?」

から始まって、

効率的なバス運行について蕩々とまくしたてた。

 

僕が社長だったら、こんな時間に走らさないだの

(わたしゃ、利用してるっつうの!)、

組合が弱くなったから経営に口を挟めないだの、

よっぽど不満が溜まっていたのだろう、

そのうちに給料が安いという愚痴になった。

 

ひとしきり聞いた後で

「その気持ちを、素直に上に

お話になったらいかがですか?」と言ったら、

「とんでもない! 僕ぁ、口べたなんです!」だと!

(あんた、それだけしゃべれりゃ十分でしょ!)

 

乗客が増えてきたので、

運転手のおしゃべりもおさまっていったが、

バスという限られた空間の中で、

時折人と人との親密さに遭遇する。

 

学生時代のことだ。

朝早くから立ちっぱなしの臨床実習で、

私はくたびれ果て、帰りのバスの中では、

爆睡状態だった。

それでも、帰巣本能というのか、

家が近くなると、自然に目が覚めるから不思議だ。

 

その日も、もうそろそろかなという所で

目覚ましモードに入ったのだが、

左耳が、妙に生暖かい。ふと見ると、

しわくちゃで、ふかふかな てのひらが、

窓と私の耳の間にヌッと突き出ている。

な、なに?!

 

びっくりする私に、後ろの席から声が掛かった。

「姉さんが、あんまり、がっこんがっこん

窓に頭ぶつけてるからよ。

オバーはこうして、手入れていたさー」

 

小っちゃな おばあさんだった。

その体を、目一杯前の席に伸ばして、

私の頭を衝撃から守ってくださっていたのだ。